私が初めてこの麦畑を見たのは、去年の夏でした。大きな公園の隣に小さな森があり、散歩道の脇の木々の隙間から、何やら大きな音がしたので覗き込んでみたのです。大きな音の正体は、麦を刈り取る巨大なトラクターの音でした。
ハートフォードシャーにあるウェリン・ガーデン・シティ(Welwyn Garden City)という町には、イギリスでは昔からある Shredded Wheat (シュレデッド・ウィート)という、主に朝食に登場するシリアルの大きな工場がありました。シュレデッド・ウィートは、元々は1890年にアメリカで開発された商品です。その名の通りシュレッダーにかけたような小麦の糸のようなものが枕のような形に丸められているもので、イギリスでも誰もが知るシリアルの一つです。袋を開けた時はパリパリしていて乾燥していますが、これに牛乳や蜂蜜などをかけて柔らかくして食べます。ウェリンの工場ができたのは1926年のこと。82年間稼働した後、イギリス各地に拠点を移し、ウェリンの工場が閉鎖されたのは2008年のこと。現在も工場があった場所に廃墟の一部が残り、映画やドラマの撮影などにも使われているようですが、この先数年かけて住宅と新しい街の施設に変化する予定です。
小さい街が麦畑に囲まれているのを私が知ったのは、田舎に引っ越して車で移動する事が増えた2年目ぐらいから。町の中心からの徒歩圏内では見えなかった景色が見えるようになってからです。以前、町の外れにある粉挽き小屋のことも書きましたが、「小麦」はこの土地に限らずイギリスの文化に欠かせない重要なキーワードです。それもそのはず、イギリスでは国内生産される穀類の65%以上が小麦だそうです。
初めて麦畑を目にしてからというもの、この公園に行くたびに麦畑を見に行きました。
10月ごろ見に行くと、土地は麦畑だった形跡もなくなり、きれいに耕された土が広がっていました。私は小麦の栽培に関しては何も知らず、後から調べたのですが、小麦には秋に種を播くWinter Wheatと、春に播くSpring Wheatがあるそうで、畑の様子からこれはWinter Wheatで10月に見た畑には種が播かれた後ではないかと思っています。
翌年4月ごろには柔らかい青い芽が一面に生えていました。ふわふわして芝生のようでした。
それからたった3ヶ月経過した7月の半ばごろ、目の前には力強く伸びている金色の麦畑が一面に広がっていました。大袈裟ですが、まるで、よちよち歩きの赤ちゃんが、立派な大人に成長した姿を見た時のような感動すら覚えました。
日本の田んぼで見るしなやかな稲穂と違い、麦の穂はギザギザしていて力強く、たくましい生命力を感じます。
麦畑で思い出す物語があります。エリナー・ファージョン(Eleanor Farjeon)の『ムギと王さま (原題 The King and the Corn)』というお話です(日本語版は石井桃子さんが翻訳)。残念ながら石井桃子さんの翻訳版が手元にないので、拙いですが原書を見ながら一部をご紹介します。
物語は、村人にSimple Willieと呼ばれる、ちょっと変わり者の青年のことから始まります。ムギと王さまのお話は、その青年の口から語られるいわゆる物語の中の物語です。
語られる物語の舞台はエジプトです。主人公である少年は、麦の種蒔きを手伝い、麦が成長して緑の畑が黄金色に変化していく様子を毎年見ながら、この麦畑を所有する自分の父親はエジプト一番の財産があると思っていました。ある日、エジプト王様がこの麦畑を通りかかり、少年に話しかけます。
王様は金色のマントを振りかざし、自分がエジプトで一番の金持ちだというのですが、少年は王様の意見を認めません。黄金色の麦畑を所有する父親の方が、財産があると王様に伝えます。王様は少年に腹を立て、麦畑を焼き尽くしてしまうのです。
残ったのは少年の手の平に握り締められていた、半分の麦の穂だけ。それを土に植えると、翌年には麦の穂が10本育ちました。
王様はその年に亡くなります。お墓には、宝石や黄金の家具などと一緒に、天国に到着するまでにお腹が空かないようにと麦も一緒に埋葬されることになり、少年は自分の10本の麦の穂を刈り取り、自ら差し出すことに決めます。
それから何百年も経ち、昨年、王様の墓から麦を見つけた男たちがイギリスに持ち帰った、というところで話し手のSimple Willieに戻ります。もう少しだけ続きがあるのですが、後は書かないで置こうと思います。
強い生命力と豊さの象徴として表現される麦ですが、収穫前の麦畑を見ていると、少年が王様に捧げた麦がどこかで息を吹き返し、イギリスのどこかで黄金に輝いているのではないかと、つい空想してしまいます。
もりした かずこ
ヨーロッパ イギリス、ハートフォードシャー
2021/08/21
季語のお話、とても興味深いです。気になって調べてみましたら、あるサイトに、
江戸時代に季語を解説した書物『滑稽雑談(こっけいぞうだん)』の中にも、「秋とは穀物が成熟する時期であり、麦においては実りの季節である初夏が秋といえる」と言う内容の解説がある。
と書いてありました。
私は麦に関する知識が無く、この投稿をする際に調べて初めて知った事も多いのですが、そのうちの一つ、麦踏みと言う作業は日本独特だそうですね。これをきっかけに、もっと調べてみたくなりました。
エリナー・ファージョンは、まだ読みかけなのですが、いつか石井桃子さんの翻訳された日本語版と読み比べしてみたいと思っています。