「魂の発電所」書評
福島に原発という文字が続くものを、本当はもう、読みたくはないのだ。
10年前のあの忌まわしい事故をもうなかったことにして、日々数え上げられるコロナ罹患者の広がりをのみ嘆き、微細なウイルスを全ての元凶にして、閉塞感をS NS投稿を眺めて晴らし、人々とは画面上で関係を繋ぐ。そうしていつか戻るであろう変わらぬ日常を夢見つつその日その日を暮らしていく。そういう世界に原発事故や放射能汚染などという言葉は、神奈川に暮らす私には、東京電力の輝く灯火の下で暮らす私には、過ぎ去った災禍としてもう、いっそ届かぬところに押しやれたらと思うのに、手の中にまた福島の悲しみが充満して、溢れて、嗚咽となって、身体を揺るがす。
数ページ読み進めては空を睨み、また数ページ開いては唇を噛みしめ、ページをめくりながら手を震わせる。
けれどその止まろうとする手を動かしたものは、心を宿した確かな筆致であり、個性豊かな登場人物達の鮮やかで力強い輪郭であった。
福島人の侠気と会津っぽの意地、それを時に嗜め、叱り、支え、励ます女達。
地図から消える町、棄民ともされるかという福島の人と土地と人生をかけて辛苦を共にする人々。
これは作られたドラマではない。生活も身体もギリギリで、それでもなお立ち上がっていく人間達の実話なのだ。
三百余年も続く造り酒屋の第九代当主。
「ブレーキの壊れたダンプカー」という異名を持つ本人の豪快さ、一徹さは代々の当主から受け継がれたものである。
「お前が生きているうちに必ず三つのことがある。戦争と大恐慌、そして大地震だ。心して生きよ」「よく覚えておけ。何かあったら酒屋には水があることをな」そう幼い孫に言って聞かせた明治生まれの七代目。関東大震災の際には一升瓶に詰めたたくさんの水を東京に送ったという。
のちに“蔵のまち喜多方”と呼ばれる美しい街並みの保存の重要性にいち早く気づき、大金を叩いて150メートル先から蔵を引いて運んだ八代目。
そして当の九代目は祖父の教えをもとに、震災直後断水していたいわき市や飯館村に2トントラックで水を運んだ。そののち、福島の復興と自立、すなわちエネルギーの中央集権、企業独占からの脱却を目指して会津電力を立ち上げることとなる。
その「ブレーキの壊れたダンプカー」のブレーン、またはブレーキ役を担うのは「東北学」を提唱する大学教授であり博物館館長でもある学者と、また日本で最も山奥にあると言われる出版社「奥会津書房」のたおやかな女性経営者である。
外資系企業の第一線で働き、日本にA E D(自動体外式除細動器)を広しめたスーパーエリートサラリーマンはたまたま妻の実家の福島で被災し、その体験から、企業での約束された安穏な将来を投げうって温泉宿土湯の地熱発電、会津電力から枝分かれした飯館電力設立の動力源となり福島の再建に身を注ぐ。
そしてやはりこの物語の太く強い柱となっているのは無名だったはずの1人の農業者の存在である。利き手の指の切断という大怪我をも乗り越え、牛の肥育と米の栽培に長年心血を注ぎ、東北の厳しい寒冷の地、飯館村の牛をブランド牛に育て上げてきた1人の寡黙な男の存在である。
福島第一原子力発電所爆発後、飯館村は原発20キロ圏内からの避難者を受け入れていた。情報を隠蔽していた政府は多量の放射能物質が流れ込んでいるにもかかわらず当初はそれを村民にも避難民にも知らせることはなかった。しかし、彼は農業者の勘として、事故発表直後から自分の牛をまず屋内に避難させ、爆発から10日もたたないうちに隣県の蔵王に牛の避難を始めたという。その後1ヶ月のうちに飯館村全村避難決定。彼自身も避難民となる。それでもなお、放射能物質が降り注ぐ飯館村に毎日通い、残してきた牛達の世話を続けた。飯館村のための酒、「おこし酒」の原料米をもう栽培する人がいないと聞けば、「じゃあ、俺がやっかな」とさらにまた離れた会津の地に通い、飯館村で復興のための電力を、という時にも「誰もやらねんなら俺がやるしかねえ」と細い身体で引き受ける。降り注ぐ放射線を受け続けたためか白血病に冒されても飯館牛の復活、飯館村の復興に身を捧げた。
東北の愚直なほどに誠実な働き者は飯館電力の社長となった。
他にも、福島出身の居酒屋店経営者、東京出身の有機農農家、市会議員、カラオケ店・パチンコ店店長、小学校教員・J A職員、遠く広島で土木工学を研究していた技術者・・・・・・。
これら様々な経歴を持つ人々が登場する。彼らを結んだもの、それは「このままではダメだ」「これはおかしい」「自分たちで何とかしなければ」という熱情であり、云うなれば人間の尊厳の噴出である。
“東日本大震災・原発事故からの復興”・・・・・・。
使い古された言葉だけでこの物語を定義づけることはできない。
これは真実を見つめ、熟考し、自らの正義に問いかけ、道無き道を歩み出した、そういう一人一人の物語なのだ。騙され、ごまかされ、見捨てられ、忘れ去られようかというその時に、何くそと踏ん張り、気張り、胸張って立ち上がった、そういう人々の物語なのだ。
震災前の、山奥に突如現れた桃源郷のようなおおらかな気に満ちた飯館村の澄んだ空気と広い空、深い緑が目に浮かぶ。
吾妻の山懐に抱かれて、もうもうと湯煙の立ちのぼる土湯の温泉街の一軒一軒が目に浮かぶ。
飯豊連峰の清明な雪解け水が町のぐるりをとうとうと流れ、白壁の蔵が並び、たてがみをなびかせ馬が闊歩する喜多方の町が目に浮かぶ。
会津藩の誇りを備えた風土に住う山深い雪国の人々の温かさを思い出す。
さざなみ立つ猪苗代湖畔の山肌に突如見えてくる太く巨大なコンクリートの円柱。
ああ、毎年土湯峠を越えて生まれ育った伊達郡の町から猪苗代湖を通り、祖父母のいる喜多方への往来に、いつも見えていたもの、あれはこんなことと繋がっていたのだ。
そして読み終えた後に自問する。
本当に原発はまた必要なのか?本当に原発は安全なのか?安全であり得るのか?本当にクリーンなエネルギーなのか?二酸化炭素排出削減のため原発を推進することは本当に環境保護の為であるのか?
馬鹿馬鹿しいほどに答えは明白である。「否!」
福島原発事故は未だ収束していない。
人々の苦難は時を経てなお積み重なる。
何がこの状況を作ってきたのだろうか。
この状況を変えるにはどのような手立てがあるのか。
私たちはどんな未来を望むのか。
この物語は魂をかけた、その一つの道しるべである。