- そもそもどうやって吉沢さんの谷戸田で撮影ができたのかは覚えていません。吉沢さんと頻繁に連絡を取り合ったという記憶もないし、できるはずもありません。季節ごとの稲作りの流れはおよそ把握していたので、この時期なら、こんな仕事をしているだろうと予測することはできました。しかし、吉沢さんの仕事は吉沢さんが決めるのではなく、その土地の気象条件によって、吉沢さんが合わせていくはずです。そのため私たちの見極めは当てになるものではありませんでした。
私たちは吉沢さんの一年間の作業と谷戸の四季を全て撮影したいと思っていました。どの時期にこの土地ならではの特徴的な作業があるのかはわかりません。とにかく勉強のつもりで一年間は最初から最後まで、撮影するつもりでいました。もし要の作業を撮り損ねたら、翌年になります。予算的にも仕上げの期日から考えてもそれはできませんでした。それだからと言って、撮り損ねた作業を撮影のためにもう一度やってくださいというわけにはいきません。そのため、自分たちでも折々に谷戸田に足を運び、自分たちの目で確認をしていました。
「ああ、田起こしはまだ始まっていなかった。」とか、
「まだ、田んぼに水を入れていない」などと、
実際に自分の目で見て、撮り損ねていないことに「安心をした」という感覚は、今でも私の心に消えない残像のように焼き付いています。
例えば、いよいよ代掻きの時期だろうと予測を立てると、吉沢さんに連絡を入れます。私たちの予測と吉沢さんの見極めが合えば、作業日時を教えていただき、撮影に向かうというのが初めの頃の取材方法だったと思います。しかし吉沢さんと十分な意思疎通ができないが故に、現場でもお互いの考え方の食い違いによる誤解などもありました。会話を交わすこともなく、吉沢さんは自分の仕事を進め、私たちは私たちで勝手に撮影していました。例えばこんなことがありました。
吉沢さんから作業の開始時間を午前9時からと告げられたとします。すると私たちは、遅くとも8時には現場に着いています。カメラや他の機材のセッティングにはそれほど時間はかかりません。むしろ吉沢さんが来る前に、谷戸田の様子を確認したりや田んぼを囲む木々から季節感を掴んだり、水の湧き出る場所の確認やどのように入水、排水されるのかなど、自分たちの気になったところを事前に見定めておき、その日の吉沢さんの仕事を予測します。場合によっては、事前に撮影することもあります。
吉沢さんのように約束の時間を9時と指定した場合に、二つのタイプの仕事への備え方があります。9時から準備をする人と9時前からする人。吉沢さんは後者でした。つまり、私たちはお互いに9時という約束の時間よりも随分前に、現場についていました。お互いがお互いの仕事を成すために約束の時間よりも前に現場で出会うことは、通常お互いの関係を良い方向へ向かわせます。しかし私と吉沢さんとは逆になってしまいました。
吉沢さんは、「9時と言ったら9時に来てもらわなければ困るじゃないか」という趣旨の言葉で半ば私たちを叱りつけました。
今になって、あの時、吉沢さんはどのような気持ちからそうした言葉を投げかけてきたのだろうかと思い返しています。皆さんは、この時の吉沢さんの気持ちを推し量ることができるでしょうか。なぜこのように気持ちを顕にしたでしょう。私は二つ、想像しています。もちろん実際に吉沢さんに尋ねたことは無いので私の勝手な思い込みですが。
一つは、やはり私が吉沢さんと良い関係を築いていなかったことに原因があると思います。仕事の段取りのことでも何でもわからないことがあったらすぐ尋ねられるような関係ができていれば、私たちが早めに現場に行く理由もお伝えできたと思います。きっと吉沢さんも私たちの行動に理解を示してくれたでしょう。しかしそういう関係をこの段階では結ベていませんでした。
もう一つは、吉沢さんにとって仕事の準備は、私たちが一般的に考えるそれとはかなり異なったものだったと考えています。単に地下足袋に履き替えたり、道具の調子を確認したりする物理的な仕事への態勢づくりのみならず、日常の暮らしの場から離れ、仕事場に身を置き、その日の仕事を成し遂げるために気持ちを切り替える「儀式」を執り行うような貴重な時間だったのだろうと想像しています。そういう時に普段その場にいないはずの私たちのような者が目に付くとうまく気持ちを切り替えられず、仕事の調子が上がらないと思ったとしたら吉沢さんが私たちに向けた言葉も理解できます。吉沢さんには儀式をいつも通りに済ませ、心地よく気持ちを切り替え、私たちを迎えたいという気持ちがあったのではないかと思います。
身支度を整えながら、鳥の鳴き声を聞こうとするのでもなく聞き、虫の音の変化から季節の移ろいを感じ、木々がそよぐのを見て風の強さや方向を察し天気の成り行きを予測していたのかもしれません。そうしているうちに、体と気持ちがひとりでに仕事をする自分に変わっていく。そうした儀式に参加できるのは吉沢さんとその土地の風土だけでいいはずです。過酷な仕事をこなす前に風土と交わす「暗黙の会話」を吉沢さんは大切にしていたのではないかと思うのです。
偶然のきっかけから吉沢さんと私たちが良い関係を結び始めたころ、私は吉沢さんが緩やに傾斜した土手にどんと腰を下ろし、両足を広げて地下足袋を履いている姿を目にしたことがあります。それはそれは、とても気持ち良さそうな表情をして、自分が手塩にかけて仕上げてきた田んぼに眼差しを注いでいました。周りの自然もニコニコして吉田さんを見守ってているようでした。人と風土が馴染んだ情景でした。お百姓仕事は過酷であり、お世辞にも楽な仕事とは言えません。しかし休憩時間にどこからともなく吹いてくる風が心地よく感じられたり、風土との暗黙の会話がお百姓に仕事への活力を与え、助けてくれることもあったのではないでしょうか。
しかし撮影が始まった当初は、そのように吉沢さんの気持ちを推し量る余裕は私には全くなく、吉沢さんとの信頼関係の距離感は遠のくばかりでした。それは映像にも現れていました。遠景やロングショットが多いのです。そんな時に強引に吉沢さんに近づいても良い撮影になることはありません。映像は正直に人と人の関係を映し出してしまう恐い機械。そうした映像を見る時、製作者、専門家、一般の観客という隔たりを超えて、人として誰もがその映画に違和感を感じることになります。もし観客がそうした違和感を感じたとすれば、作品の質を問われる以前に、製作者の姿勢として、一人の人間として、信頼を欠く致命的な印象を見る人に与えることになります。ドキュメンタリー映画は映される人、映す人、見る人が作り上げる信頼関係によって成立するものだと私は思います。その関係性は正三角形にも象徴され、どこかの角が突出しても、崩れても成り立ちません。
吉沢さんの仕事を間近に撮影するためには、吉沢さんに懐へ招いてもらう必要があります。でも、どうしたらそのようになれるのか・・・。吉沢さんと会話もない撮影を繰り返している内に私は決心しました。こちらから何らかのアクションをかけるよりは、黙って成り行きに任せ「向こうからの偶然の働き」を待とうと。しかし「向こうからの偶然の働きかけ」はいつ、何がきっかけとなり起こるのかはわかりません。一年間撮影しても、来ないかもしれません。そうなったら、諦めるよりは仕方はありません。そう腹を括ったのです。
梅雨が始まる頃に、全く予想外のことが起きました。雨が私を助けてくれたのです。
(後編に続く)