吉沢伊三夫さんの私たちに対する対応は最初からかなり厳しいものでした。しかし私たちには撮影を諦めるわけにはいかない理由があったのです。結局のところ、吉沢さんがなぜ撮影を許してくれたのか、今でもよくわかりません。
吉沢さんの仕事ぶりは、「うつし世の静寂(しじま)に」という映画に記録されています。カメラで撮影され、編集を経て、映画として残されると、そのシーンは最初から当然撮影されるべき姿のように思えてきます。映画を見る人の目は、流れていく映像を次から次へと自然に追います。そのシーンがなかったらこの映画はどうなってしまうだろうなどと考える人はまずいないはずです。しかし作り手は知っているのです。映画にとって特別なシーンの多くは、撮れる可能性より撮れない可能性の方が遥かに高かったことを。
私は、吉沢さんの仕事ぶりを映したシーンに差し掛かると、いつもハラハラしながら見ています。すでに吉沢さんの姿は映像に焼き付いて映画から離れないにもかかわらず、吉沢さんのいない「うつし世の静寂に」という作品を想像してしまうのです。ひとつの強迫観念と言っていいかもしれません。
一体、吉沢さんはなぜ私たちが撮影することを最終的に許してくれたのか。あんなにも私たちを拒み、映画(テレビ)を否定し、撮影を信用していなかったのに。
最初に吉沢さんに会ったのは、地区の寄り合いだったと記憶しています。私たちは区長を通じて撮影のお願いをしていたのでした。区長が集落の皆さんに私たちの要望を図ってくれるとのことで私たちも寄り合いに参加しました。そこで吉沢さんを紹介してくれるという話だったように思います。
10名前後の戸主の集まりだったと思いますが、その前で私は私なりに丁寧に撮影の趣旨をお伝えしました。即座に吉沢さんが言葉を重ねてきました。それから吉沢さんは延々と話を続け、最終的に区長が語気を強めて制止するまで、ほぼ話が止むことはありませんでした。他の方々はずっと黙っていました。成り行きを見定めていたのかもしれないし、口を挟む余地がなく放任するより仕方がないと思ったのかもしれません。それほど吉沢さんの言葉は凄まじいものだったのです。
今、思い返してみると細かなことは全て忘れてしまいましたが、大まかに二つの話があったように思います。
ひとつは、自分に伝えたい大切な物事ががあるとすれば、それは家族に伝えるべきことであり、いかなる理由があってもあなた方(私たち撮影スタッフ)ではないこと。
もうひとつは、映画とかテレビの撮影を人の仕事として全く信用していないこと。のちにこれには吉沢さんなりの理由があったことがわかりました。
吉沢さんの話の大半は二つ目の方にあり、言葉も比較にならないほど厳しかったのです。私は黙って話を聞いていました。ひとつ目については、全くその通りだと納得しました。おそらく最初に私が撮影をお願いしたい理由として、「映像に残して後世のために」というような趣旨の話をしたのでしょう。その気持ちに今でも偽りはありませんが、自分の伝えるべき後世は、子や孫のような家族だと実感のある話を吉沢さんからされると、私には返す言葉が全く持てませんでした。お百姓の暮らしや技はそうやって血で継承され、同じ地域に住まう人々の中に受け継がれてきたものに他ならなかったからです。部外者からの映像に記録されることで後世に残るという話はお百姓の確かな暮らしぶりと比べると、説得力に欠け、撮影のために何とか取り繕った理由と受け止められても仕方がなかったのです。
二つ目の話については、「いくら何でもそこまで言うことはないだろう」という思いが即座に込み上げてきましたが、その気持ちを吉沢さんに返すことはできませんでした。とても冷静に吉沢さんの話を聞ける状態ではありませんでしたが、一言、何らかの言葉を発すると、次に自分の中から何が飛び出てくるのか、それを恐れている気持ちもありました。何故ならば、棚田状に広がる吉沢さんの谷戸田変わる場所もその仕事ぶりに変わる人も他に選択肢はないと思えたからです。うつし世の静寂にという作品において、何としても多摩丘陵に暮らしてきたお百姓の谷戸田作りとその技、さらに言えば、小高い丘陵地に挟まれた谷戸の風土を映像に記録しておきたかったのです。
結局、区長の取りなしのおかげで、吉沢さんは私たちの撮影を受け入れることになりました。が、しかし、この時点では吉沢さんと私たちの間には大きな溝があったのです。あまりにも大きな溝であるが故に、これからどうやって撮影をしたらいいのか、全く見通しが立ちませんでした。吉沢さんと会話する糸口さえ見つける事はできなかったのです。かろうじて、吉沢さんの連絡先だけ教えていただき、寄り合いを終え、私たちは帰ることにしました。(中編に続く)