私には、柴原福治さんが80歳を過ぎてなお、なぜ「根埋け」という伝統的な方法で筍作りをしているのか理解できなかった。今でもその本意はわからない。福治さんはすでにお亡くなりになっているので、もはや本人からその理由を聞くことはできない。それゆえ、柴原福治さんは私にとって忘れ難い人になっている。
筍作りは、私が想像していた以上に過酷な厳しい労働だった。今、思うと恥ずかしくなるが、筍は「作る」ものではなく、「生えている」ものだと思っていた。春になれば竹林に出かけ、至る所に伸びている筍を掘って収穫すればいいのだろうぐらいにしか考えていなかった。こんな楽なことはない。耕すことも育てることもせずに、自然に任せていればいいのだから。
ところがとんでもないことだった。まずタケノコ掘りにしても、筍が地上に顔を出してからでは遅く、地中にある内に掘り出していることに驚いた。そのために福治さんは足の裏で筍の穂先を敏感に感じ取り、竹の細い枝を目印として挿し、しかるべき良い時期にその目印を頼りに筍を掘り出していた。収穫された筍の穂先は黄色い。陽の光を受けずに地中で育ったからだ。そのため灰汁もない。米糠を入れて炊き、灰汁抜きをする必要は全くない。刺身にして食べられるほどだという。柔らかさと優しい味わいが想像できると思う。
そうした品質の良い筍をとるためには、もう一つ秘密があった。それが「根埋け」という伝統的な筍作りの方法だった。福治さんに映画の出演をお願いしたのは、昔ながらの方法で忠実に「根埋け」をしているのは、今や柴原福治さんしかいないと教えられたからだ。
オオカミの護符は、オオカミという動物やその生態についての映画ではない。オオカミの護符を大切に守り伝えてきたお百姓の暮らしに焦点を当てた映画だった。その点からしても福治さんはこの映画にとってはなくてはならない人になっている。
当初私は、なぜ福治さんだけが「根埋け」を続けているのか、不思議には思わなかった。そうした問いを抱き始めたのは実際に福治さんに会い、あまりにも過酷な「根埋け」の作業に触れ、それを80歳すぎても続けている姿に直面してからのことだった。こんなにもきつくて厳しい仕事をしているからには、何らかの理由があるに違いないと思わざるを得なかった。かつてこの地域では筍が貴重な換金作物だったという。だが、福治さんは筍を売るために作っているわけでもなかった。それではなぜ、筍作りを一人で続けているのか。
八月の猛暑、竹林の中は日陰とは言え、何もせずに立っているだけでも汗が滴り落ちてくる。この中で福治さんは筍の根を掘り返す。良い根を残しその他は切り捨て、間引きの作業をする。「根切り」という作業だ。竹は繁殖力が強く、根も地中で縦横無尽に生え広がる。土を掘り返すだけでも相当の体力を消耗するのに、無数にある根を選別する根切りは気が遠くなる作業だ。福治さんは私たちの撮影に気を配っている様子はない。自分の持てる力を全て目の前にある作業に注いでいる。山のように切り出された根を見ると、根切りは何日もかけて行われる作業と思われた。
根埋けは、選別した良い根をもう一度地中に埋め直す作業を言う。膝が埋まるぐらいに深く堀り、根を足で踏みつけ、上から土をかけて埋め、米糠を十分に振りかけ、落ち葉も加えてふかふかの層を作り、さらに土を重ねて踏み固めて仕上げる。福治さんによると、根埋けをすることで丈の揃った立派な筍が育つという。落ち葉は筍の成長を促す養分となるだけでなく、空気が流通することですくすく育つことを助ける。結果的にふっくらした太い筍が育つという。筍作りの秘訣は地中で育て上げることにあった。その要の作業が根埋けだった。
一日の作業を終えると福治さんは、「へら」という道具を束子でゴシゴシと洗う。自分の手も束子でゴシゴシ洗う。私の記憶に残る福治さんの「仕草」だ。仕事の仕方も、道具の洗い方からも、几帳面な性格が伺えた。「ここだけは譲らない」というような厳格さを備えているようにも思えた。
ようやく一息つきそうな雰囲気があったので筍づくりの説明を聞き、最後に心に秘めていた質問をした。
「福治さんは、なぜ今も根埋けを続けているのですか」
「ウチの若い者(家族)の足しになるかなと思って」と福治さんは言った。
私には、その答えが福治さんの本意には思えなかった。もちろん、福治さんが嘘をついていると言いたいのではない。私の質問をはぐらかしているとも思わなかった。ご自身でそう思っているのは本当のことだろう。しかし本意は別のところにあるのではないかという気持ちを拭い去ることはできなかった。そこで私は何度か同じ質問を繰り返した。残念ながら、繰り返すたびにこちらの思いとかけ離れた答えが返ってきた。次第に何らかの理由で閉ざしている心の扉を、私が無理やりこじ開けているようにも思え、それ以上「踏み込む」ことはやめた。結局、福治さんが抱いていたであろう本意を聞けぬまま、行き場のない問いが今も私の心で彷徨っている。
「答えを与えられない問いは、人から離れ昇天することができない」と私は考えている。成仏できない魂のように行き場を失い、この世を永遠に彷徨うことになる。やがてその問いは「答えのない問い」として本人に返ってくるのだ。むやみに人の心に深く入るような問いかけをしてはならない。
今になってさらにあのまま同じ質問を繰り返していたらどうなっただろうかと思うことはある。答えはいつも同じだ。結局のところ、福治さんは心の内を明かすことはなかっただろう。むしろ答えようがなかったのだ。そういう意味では良かった。あの段階で質問を留めておいて。
奇妙な言い方かもしれないが、きっと福治さんは、自分はなぜ根埋けをしているのか、その理由を根埋けの作業をしながら考えていたのだと思う。そうしなければならないきっかけはあっただろう。しかし、そうしなければならない理由は言葉にできなかった。言葉にしたくなかったのかもしれない。人に伝えるつもりは、さらさらなかっただろう。黙々と作業する中で自分が確かめたかったのではないか。
あの福治さんの直向きな仕事の仕方は何だったのだろうか。福治さんの姿を思い出す度に何度となく反芻してきた。黙々と根埋けをしている姿が何度も思い浮かんだ。ずっと言葉にならなかったが、この頃になってようやく何か言えるような気がしてきた。15年余りすぎた後で。福治さんはまるで、
「修行をしているように、筍作りをしていた」
自分に課せられた修行のように根埋けをしていた。あるいは、このようにも言えるかもしれない。福治さんは自分の中にぽっかりと空いてしまった穴を一生懸命に埋め合わせようとしている。福治さんの体は根埋けに向けられているが、心は根埋けを通してどこかに向けられていたのではないか。もちろんこれらは私の勝手な思い込みだ。
映画が完成してしばらく経った後、小倉から「福治さんは町でも早い段階で不動産業に乗り込んだ人だった」と聞いた。筍作りに精を出している福治さんしか知らない私にとって、容易に受け留めることのできないエピソードだった。「へら」という道具を手にし、腕には手甲を付けて、息を切らし汗を流して筍を掘っている福治さんと、背広を着て自ら設立した不動産会社でオフィスワークしている姿とを結びつけることはできなかった。
昭和40年代に入り、川崎市宮前区一帯の地域は、東急田園都市線が引かれ、東名川崎インターチェンジを誘致することをきっかけとし、高度経済成長の大きな波に乗った。江戸時代より筍や花の栽培などで生計を立ててきた村々は、瞬く間に都心に働きに向かう人々のベットタウンに様変わりした。ものの見事に国や自治体、大企業によって「計画された街」が作り上げれられた。地価は毎年のように高騰した。それによって好むと好まざるとに限らず、かつてのお百姓たちは先祖から受け継いできた山や田畑を売った。不動産業に転じるお百姓も少なくなかったという。
この地域のお百姓が当時、どのような苦渋の決断をして田畑や山を売り、または売らずに残そうと踏ん張ろうとしたのか、私は知らない。お百姓の暮らしに見切りをつけ、自ら望んで早々に新しい波に乗っていった人もいるだろう。いずれにしても想像を絶するような様々な思いが人々の心を駆け巡ったのではないか。村を二分するような出来事も実際に起きたはずだ。村人にとって良いことも悪いことも同時に起きただろう。
私は福治さんが根埋けをしている姿を今、もう一度思い浮かべている。
山や田畑を売ろうが売るまいが、ひとたび土を離れ、お百姓をやめた人が再びお百姓として戻ってくることはほぼあり得ない。それは、耕そうにも山や田畑を売ってしまって耕す場所がないといった物理的な問題を言っているのではない。むしろ、心の問題だ。きっと福治さんは、根埋けをしながら同じように汗水流して辛い仕事を歯を食いしばって続けてきた先輩や先祖の姿を幾度となく思い浮かべたことだろう。福治さんはカメラの背後で作業を見守っている小倉の姿に気づくと、
「小倉さんのお祖父さんもよく、ひとりで根埋けをしていたね」
と言った。それは小倉に言っているようでもあり、自分に言っているようでもあった。今の自分と先人を思い浮かべた時に、福治さんはどうしても埋めきれない「穴」を感じていたのではなかろうか。土に立てば、「へら」を手にすれば、竹林を見れば、苦労をしてきた先人を思い浮かべてしまうのがこの土地のお百姓だと私は思う。土に戻ってくるというのはそういう思いが蘇ってくることなのだ。誰もそのような思いをしたくはないはずだ。苦労した先人を知っている人ほど。
しかし福治さんは、そうした思いが蘇ってくる竹林に再び立った。そして竹林の中で同じ仕事に汗を流した先人と向かい合い、彼らの声に耳をすませ、彼らから投げかけられた問いに誠実に答えようとしたのだと思う。
そうすることで、果たしてほっかり空いた穴を埋め合わすことができたのか。できなかったのか。それとも他に良い方法があったのか。私にはわからない。しかし福治さんにとってはそうするより他に仕方がなかったのだろうと思う。
土を離れたかつてのお百姓がほとんど戻ってくることがなかった中で、福治さんは一生懸命に戻ろうとした数少ない稀な「お百姓」だと私は思う。福治さんにように仕事に向かう人を私は他に知らない。福治さんのように「根埋け」をする人は今後、決して現れないと思う。
由井 英
川崎市宮前区
2020/09/21
根埋けは、毎年竹林に手を入れ続けてこそ為せる技だと聞きました。ひとたび手を離すと竹も根も生え広がり、整えることがかなり難しくなるようですね。
私たちが撮影させて頂いた頃には、手の行き届いたとても綺麗な竹林でしたが、そうした「根埋け」ができるような状態にするまでには根気強い作業が毎年重ねて来られたのだと改めて思いました。
間近で「根埋け」の作業を見させて頂いたのは貴重な体験でしたが、福治さんの仕事ぶりに接したことが今や私の記憶に残る財産になっています。
心づけ、恐縮いたしますが、有り難く頂戴いたします。今後の制作活動やHomeTownNoteの運営に活かして参りますので、今後ともよろしくお願いいたします。