松田さんを初めて撮影したのは、2012年4月16日。東日本大地震が起きてから1年が過ぎていた。陸前高田市の被害状況を初めて目の当たりにした時、陸前高田という町にカメラを向けることは憚れた。土地の方々に会うたびに、どんな言葉を掛けたら良いのか、言葉が見つからなかった。ひたすらに人に会って話を聞き、町のなかを歩いた。どこに向かいどこへ行こうとしているのか、何をしたらいいのかもわからず、ただ宙に浮かんだように彷徨っていた。
広田湾に広がる静かな海と穏やかに流れている気仙川が印象に残った。その姿だけを見ると、ここにあの大きな津波が押し寄せてきたということが想像できなかった。町をぐるりと囲む山々が大きく見えた。町の中は、ありとあらゆる建物が壊されていた。病院やスーパーなどの一部の建物が廃墟のように目に付く他は建物らしきものが見当たらなかった。カモメが何もなかったかのように鳴き、風に吹かれて飛んでいた。あちこちに小さい山を作るようにガレキを集めていた重機の音は今も耳に残っている。
我々は、「津波に襲われた被災地としての陸前高田市を撮影するためにこの町に来たのではない」という気持ちを持っていた。しかし、何を撮影したら良いのか全くわからなかった。人の話を聞き、車で移動し、歩き、目に入ってくるものを次から次へと瞳に写すより他は何もできなかった。家が建っていたであろう場所に供えられた線香からは細い煙がゆらゆらと立ち上り、青い空と海に吸い込まれて消えていった。手向けられた花の色がいつもより色濃く、鮮やかに見えた。「気仙町鎮守諏訪神社」と文字が刻まれた石塔が倒されていた。神社の参道の入り口に建てられていたものだろう。
この町を自分の故郷と想像した時に、何を思うだろうか。家族や先祖、この町で逞しく生きてきた大勢の人の顔や姿を思い出し、つらい気持ちになったことだろう。陸前高田市にはどのような暮らしがあったのだろうか。私は全く知らなかった。
次第にこの土地の人たちの心に刻まれた「これが陸前高田市」という姿を撮影した方が良いのではないかという気持ちが湧き上がってきた。しかしそれを目の前の現状から探していくのはかなり厳しい作業だった。「ものがたりをめぐる物語」という映画の趣旨から外れる訳にもいかなかった。映画は信州を舞台にしていた。諏訪大社の縁起物語「甲賀三郎」伝説を手がかりに、個人の表現物としての近代文学とは異なる地域の記憶を記録した「ものがたり」の役割を明らかにし、特に自然や風土に対する日本人の深層心理を描こうとしていた。そうした映画のテーマと陸前高田市の置かれた現状とを結び付けるものは何もなかった。むしろ単純に繋げてしまうことは、諏訪の人々にとっても陸前高田の人々にとっても失礼にあたる。そんな思いを抱えたまま、陸前高田市を後にした。
何事もなかったかのように「元に」戻っていく都会の暮らしに違和感を抱き始めていたころ、小倉が「気仙川に掛る橋」の話を始めた。東北地方では「流れ橋」と呼ぶ地域もあるようだ。橋は「雨などの増水により、流されることを想定して作られている」という。嵐が過ぎ去った後、部材を拾い集め、橋は作り直される。
今にして思うと、自然に逆らわず、むしろ寄り添っていく東北の人々の姿勢をその橋から象徴的に感じ取っていたのではないかと思う。橋には「これが陸前高田の暮らし」と地元の人々が誇りを持って語ってくれるものがあるように思えた。早速、小倉が市内の横田町に住む菅野広紀さんに問い合わせると、自分の集落では板橋と言い、今でもその橋は作り続けられており、松田富美夫さんが詳しいと教えてくれた。
松田さんたちの暮らす横田町は、気仙川の河口からしばらく上がったところにあるため、津波の直接の被害は受けなかった。しかし、津波に押し寄せられ、川を逆流してきたガレキによって板橋は壊されていた。増水した川に流されることはあっても、そんな事態になることは誰も想像できなかっただろう。
松田さんの横顔を写した映像は、初めて板橋について話を聞いた時のもの。このとき私は、松田さんたちに板橋を作り直してもらえないかという気持ちを抱いていたが、やはりあからさまにお願いすることに躊躇していた。そんな私の気持ちを察してかどうかはわからないが、松田さんは「橋を作れないこともない」と含みのある言葉を返してきた。板橋を「作りたい」でもなく、「作りたくない」でもない、「作れないこともない」という松田さんの気持ちの裏に潜む理由を私は図りかねていた。
松田さんは時折、私から目線を離し、遠くを見るように横顔を見せる。その横顔には、どことなく「寂しさ」が漂っていた。どこからその寂しさは来るのだろうと私は質問を投げかけながら感じ取ろうとしていた。そのうちに松田さんが、
「渡る人がいない。使う人がいない」
と語気を強めて言った。板橋が掛かっていた場所の近くには、コンクリートで頑丈に作られた橋があった。橋脚には、夥しいガレキが引っかかってはいたが、橋は壊されていなかった。
その年の6月、板橋は建て直された。松田さんが自ら集落の若い衆に声を掛けて音頭を取ってくれたと撮影後に聞かされた。若い衆は「松田さんが言うのなら」と、次々に腰をあげたという。津波によって親戚を亡くされた人もいたという。そうした心の傷は何によって癒されるのだろうか。板橋を作り直すみんなの表情は朗らかだった。彼らの笑顔は映画で見てもらいたい。
板橋が次々と建て直されていく姿を子供みたいに嬉しそうに眺めている松田さんに、私はひとつお願いごとをした。その時は、ためらう気持ちはなかった。松田さんは確か、
「膝が痛えから」
というような言葉を言い、不安そうな表情を浮かべた。が、「きっとやってくれる」という確信が私にはあった。
板橋が建て直された翌朝、橋の周りには私たち撮影スタッフ数人と松田さん以外に誰もいなかったのは幸いだった。松田さんにとっても、もちろん私たちにとっても、NGなしの一回きりの勝負のショットだった。松田さんからは、若い頃、向かいの山にある畑に行くために板橋をよく渡っていたと聞いていた。腰に鎌を下げて、鍬を背負って。私は、「もう一度、板橋を渡ってほしい」と松田さんにお願いしていた。
後ろ姿の映像を見ると、腰が曲がっている。足元もおぼつかない。若い頃と違って杖もついている。それでも鎌を縄で腰にしっかり縛り付け、鍬を担いで板橋を渡ってくれた。映画を見れば一目瞭然だが、もはやこの場面を無くして映画は成り立たない。板橋を渡る松田さんの姿は、「まるで地元の風土が松田さんを温かく包み込んでいる」ように私には見える。それ故に、この映画を松田さんには見てもらいたかった。
「ものがたりをめぐる物語」は2021年、東日本大震災から10年の歳月をかけて完成する。どこまで届けれられるかわからないが、多くの人にご覧頂きたいと思っている。HomeTownNoteでも視聴できるような環境を整えたいと考えている。
由井 英
川崎市宮前区
2020/08/28
hiroko さま
思いかけず多大なご支援を頂き、恐縮しております。どこかにきっとこの記事をしっかり読んでいてくれている人がいると信じて書いていますが、こうしてコメントを寄せてくださったりご支援をいただけると、「繋がった」という感を抱き、本当に励みになります。ひとりの執筆者としてこんなに嬉しいことはありません。
「ものがたりをめぐる物語」という映画をしっかりお届けしますので今しばらくお待ちください。映画のクレジットにご協力者としてお名前を載せさせていただきます。