ドキュメンタリー映画ではたくさんの人にお話を聞きます。デジタルカメラの登場により、極端な言い方をすると、際限なく映像や音声を記録することができるようになりました。「何でもたくさん撮れる方が良い」と思うかもしれませんが、必ずしもそうではありません。テクノロジーの進化と撮影技術の向上は比例関係ではありません。むしろ人間の技がテクノロジーに置き換わったとき、便利さや使い易さと引き換えに何か大切なものを失ったのではないかと気づくことがよくあります。ただし、人の話を記録するという点に限って言えば、デジタルカメラの利点は多いような気がします。
私の場合、一人につき2時間ほどの時間をかけてインタビューをします。これは映画のインタビューに限ったことではありませんが、話し手がこちらの質問に的確かつ簡潔に答えてくれることはほとんどありません。質問の意図を取り違えて全く関係ない話から始まることもありますし、そうやって始まるのが普通です。特に初めてお会いする方の場合(ほとんどが初めの方ですが)は当たり前ですが、最初から何でもあけすけに私に話をすることはありえません。名刺一枚のご挨拶や撮影の意図を丁寧に説明したところで、話し手が私をすぐに信頼することはありません。互いにぎこちなさを感じながら、撮影の準備をして、お話を聞き始めることになります。
意識的にも無意識的にも「どこまで心を許して話そうか」という気持ちでインタビューに応じるというのが話し手の本音ではないでしょうか。それは当然のことです。人の懐に入るためには作法も必要です。しかし不思議なことに、こうした人間的距離間が縮まることなくインタビューが終わることは稀です。私の記憶では経験したことがありません。話を聞いている内に何かのきっかけで距離が縮まり信頼関係が生まれるのだと思うのですが、それが何なのか私にはよくわかりません。
フィルムカメラやビデオカメラの場合、どうしてもフィルムが切れたりテープが終わると、撮影を止めて新しいものに変える時間が必要になります。その間、話を中断しなければなりません。聞き手と話し手がそれまで会話を重ねて縮めてきた導線が突然ぷっつりと途切れてしまうことになります。後から「あの話をもう一度聞かせてください」と頼んでも同じ話にならないのが人の話です。その点、際限無く撮影できるデジタルカメラは有利です。
インタビューは「生もの」ですから、思惑通り話が進むということはありません。予測できないことが次から次へと起こります。それが人にお話を聞く面白さでもあり、難しさでもあります。
今回から始まる「あの仕草、あの言葉」というシリーズで一番最初に紹介したい人は、「オオカミの護符」という映画で出演されている山中恭介さんです。恭介さんはすでにお亡くなりになりました。恭介さんから聞いた「ゆずり」という言葉は、折に触れ私が思い出す言葉です。ゆずりは一般的な言葉で言うと、「伝承」が当てはまりますが、例えば村の伝承という使い方にみられる意味とは異なり、先祖から代を重ねて人づてに受け渡されてきた家の言い伝えという意味が濃いように個人的には受け留めています。ゆずりという言葉には、秩父の山間で暮らしてきた人々の奥ゆかしさを感じます。
撮影日:不明(おそらく2006年ごろ)
映画作品:オオカミの護符
話し手:山中恭介、秋子夫妻
場所:埼玉県秩父市(旧大滝村)
お話を出来るだけ忠実に書き起こしていますが、読みやすいように一部、言葉の削除、書き換え、編集をしています。
山中恭介:昔はお焚き上げをした、小豆飯を方々のお犬様のお出でになるところがありましてね、そこまで持っていてお祀りしたことがあるんです。向い山に二ヶ所ぐらいありましてね。そこまで持って行ったんです。
小倉:それは恭介さんの若い頃ですか。
恭介:いや、私よりもっと古い人です。
小倉;「御産立て(おぼだて)」という…
恭介;それが御産立てのところ、何か鳴き声がしたんだそうです。お産の時に。小和名倉というところがこの向かいにあるんです。そこに、「ここは昔、御産立てをしたという」目印の小さな祠があります。それが御眷属様の御産立ての場所であったと。そこへ小豆飯を持ってお祀りしたと。そういう言い伝えがありました。実際にその場所には行ったことはありませんが。
秋子:ああ、山なんか全然見なかったから…紅葉しかけている。(縁側から向かいの山を見て)
小倉:そうですね...。 御産立ての話で何か聞いていることがあったら教えていただけますか。
恭介:御産立ての時は、何か、お産の苦しみか何かでね、えらい唸り声がね、聞こえたんだそうです。それで、小豆ご飯を持ってお祀りしたんだそうですが、そうすると近辺にいた獣か何かが全部、山の方へ逃げたという。それで御眷属様をお借りして家へ祀ってね、害獣除けで。お産の鳴き声があまりにも凄まじくて全部獣が逃げたという。獣だけでなく人間もえらい恐ろしい感じがしたそうです。
小倉:御眷属様というのは、いわゆるお犬様。
恭介:お犬様。
小倉:ニホンオオカミ?
恭介:山犬とか、そこのところははっきりしませんが。
由井:恭介さんは、御産立ての話を誰から聞いたのですか。
恭介:それは私の親父から聞いて、その前の親父とだんだんゆずりでね…。そういう話を聞いてきたんです。一代、二代、三代前の「サダオ」爺さん。あの人あたりは小豆飯を持って…ですから三代ぐらい前の話です。えらい恐ろしい感じがして帰ってきたそうです。何かずっと山仕事をしてきた家の関係で、お犬様と関係が深かったそうです。まあ、山犬とかオオカミとか聞いておりますけれどもはっきりわかりません。
小倉:そうすると(三峯)神社でやっているお焚き上げは御産立てと関係あると考えていいんですかね?
恭介:ええ、そうなんですね。ですから、昔は山でお祀りしていたんですが、それがだんだん時代が下ってきて、お犬様を社にお祀りしてそこへ小豆ご飯を持っていくと、山の方は途切れて。
この文章を書くにあたって久しぶりに撮影映像を見ました。何年振りでしょう。10年近くは経っているかもしれません。映像を見るとインタビューをしている我々が「ゆずり」という言葉を印象的に受け止めている様子は全くないんですね。恭介さんもさらりと当たり前のように話をしています。不思議なものですね。他の言葉は忘れても「ゆずり」は今も覚えているのですから。人の話というのは、どのような理由により聞き手の心に残るのでしょうか。
お人柄というか、お郷(くに)柄というか、最近では人の心に響く言葉を話す人と出会うことが少なくなりました。寂しいですが仕方がないのかもしれません。
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