2/8に行われた「土曜日の会」スペシャルイベント「村から街へ。」。1日をかけて同じ観客で映画と向き合い、思いを残した。
私たち「一枚の畑」の仲間たちは、一枚の畑の収穫物である文旦と柚子を販売した。ただ商品を売るのではなく、一枚の畑から何がつながり、見えてくるのか、その実践の場でもあった。準備では収穫物の価値を見極め、値段を決め、伝える作業に落とし込む。その成果物として販売ポップや紹介ポストカードが出来上がった。
当日、販売をしてみて文旦と柚子が私たちと観客をつなぐきっかけになっていることを実感した。私たちが販売していたのはただの食べモノとしての柑橘なのではなく、「一枚の畑」という過去から未来に繋がっていくものがたりを持った食べものとしての柑橘であった。そして足を止め、私たちの話を聴き、問い返してくれるお客さんと文旦と柚子をつうじて、小さいけど大切な何かを共感しあうことができた。柚子は「傷なし」1個100円と「傷あり」3個200円で販売した。傷があっても、味や品質は劣らないことを伝えると、「見た目は気にしない」といって後者を選ぶお客さんが圧倒的に多かった。このことは信頼関係をもって食べ物を手渡せている実感を、私に与えたのだった。純粋にうれしかった。
では、来場した方はどんな興味でここに足を止め、柑橘を買うという行為をしているのだろうか。ひとつ思い当たる理由があるとするならば、1日をかけて同じ空間で映像と言葉を共有していたからであろう。特に、映画上映後トークセッションで、誰かの発言や登壇者の言葉に対して、観客がうなずく姿を何度もみた。そしてその回数は終盤にかけて増えていっていたように思える。それは言葉が単なるコミュニケーションツールを超えて、他者へアクセスする入り口へと変わっていく様子そのものであったのかもしれない。
果たしてどんな言葉なら私たちは共に歩んでいけるのだろうか。かつては暮らしという共同性がそこにはあった。講はその象徴であったし、講に見られる閉鎖性はそれだけ他者への信頼と信用がせめぎ合うことを意味していた。今や解体され、「個」が暮らしの単位になった生活の中で、私たちは何を拠り所にして生きていけるのだろうか。拠り所のない不安感が社会に漂っていることはよく知られているが、一向に安心できる暮らしの場が訪れない。このことと向き合ったとき、この場は「出発点」であることに気が付かされる。安心できる暮らしの場は待っていてもやってこない。そして独りでもつくれない。だからこそ、この場から始めていけるのではないか。そんな期待感が会場に生まれていたように感じられる。
最後に映画を観て、印象に残っている部分で終わりたい。
「人が死んでも間が残り続ける」
『ものがたりを巡る物語』後編でオギュスタン・ベルク氏が発した言葉であるが、心に留めておきたいと思った。人にある二面性のうち一方は「自己」、そして他方である「間」。「間」とは何か、私はまだうまく言葉にできないでいる。それでも橘樹郡で収穫された柑橘を誰かに手渡していく中でふと感じたことは確からしいものだった。それは、あの場において柑橘が私たちを「間」に連れ出すものとして、生きていたということだ。そしてその意味で、私たちは柑橘を仲間だと思っているし、柑橘も我々を仲間だと思っていただろう。
素敵な催しに参加できたことを心から誇りに思った一日だった。
ありがとうございました。
松田理沙
川崎市宮前区
2025/02/11
理沙さん
「見た目は気にしない」という反応は予想外でした。嬉しいですね。買う人の気持ちをもっと深く捉えていく必要がありそうですね。
もうひとつ、嬉しいことがあります。アンケートを読むと、柚子の香りを楽しみながら映画を観ていたという感想があったのです。その人は学生たちが柑橘類を一生懸命に売っている姿を見て応援したくなり、買ってくれたそうです。まさか、お風呂で柚子を香る前に映画を観ながら香っていたとは !?
理沙さんが受け止めてくれたベルクさんの言葉は、今でも私の印象に残っています。
人間という言葉を、「人(ひと)」と「間(あいだ)」に分けて、それぞれ「個人的な側面」と「関係的な側面」に捉え直していることに本当に驚きました。そして、その両方の側面を備えているのが本来の人間であり、人が死んでも(個人的な側面は失われるが)関係的な側面は残る、生き続けるとベルクさんは言っています。
そう考えると、死者はあの世では死んでいるかもしれませんが、この世では生き続けていると捉えることもできそうです。きっと、それが私たちの先祖の意識であり、縄文人まで連なる感性なのでしょう。
ベルクさんは、この映画がもがきながら表現しようとした世界観に、多くの示唆を与えてくれました。