信じるとは何か
「歎異抄」唯円 著
「歎異抄」は、かつて社会改革をめざす人々にもよく読まれていた。その理由は、社会改革をめざす人々には一つの課題があったからである。彼らは人々にこの社会を変えなければならないと語る。だが、そう述べるときに、自分を変革の必要性を知っている人という高みに立たせてしまう。それを知っている自分が、まだそのことに気づいていない人に語る、という構図である。この構図にはまると、自己肯定による他者差別が生まれてしまう。
ところが親鸞は「気がつけば阿弥陀仏は自分一人のためにある」と語ることによって、この構図にはまることから免れていた。
気がつければ社会変革も自分一人のためにあるのである。自分がそうしたいのである。それでよい。そのことに気づいたとき、同じように社会変革を望んでいる同朋が感じられてくる。(p.331/出版:農文協)