地域 神奈川県川崎市高津区

【2024.10.26.】「土曜日の会」に参加して

0pt

その他

令和(2019〜)

今日の「土曜日の会」は藤原新也さんであった。私の拙い説明では多く伝えられないので、肩書きも省略させていただきたい。

 

正直よくわからない、何も言葉が出てこない。冷静だけど、頭は空っぽ。
というのは決して今日が何も実りがない日だったとか、つまらなかったとかそうではない。
私のノートは黒い文字でいっぱいだし、印象に残っていることは山ほどある。
響いているその音が、どこから跳ね返ってきているのか分からない。跳ね返ってきた音の波を、私の聴力では聴き取れない。はたまた自分の立ち位置さえも把握できていない。そのような感じに近い。

 

今回の「土曜日の会」で対話の平等性について考えていた。
今日の話と関係ないように見えるこの題が、私にとっては関係があるように見える。
おそらく「土曜日の会」には話すこと・聞くことの哲学が存在しているとからだ。

 

私にとって対話は不平等である。岬に立って見渡す地平線と同じようにどこまでも続く不平等である。目の前にいる他者が、己の言葉に責任を持たないのであれば、私がその責任を負わなければいけないような気になる。しかしそれを自己に統合するには痛い思いをする。その不平等さの境界で、他者と自己の接合点を探し続けることが、私にとっての対話である。ここまではいつも通りだ。

 

藤原さんは言っていた。
「平易にすべてを見られるようになった。」

 

これがわからない。藤原さんにとって、日本は他者であったようである。日本という他者との間に、距離があり、違和感を感じ、批判の対象にさえなりえた。それが飲み込めるようになるならば、他者と自己の関係にどんな変化があったのだろうか。対話が平等であるその瞬間を垣間見ているようだ。他者と自己が接合することなど、ありえないのかもしれない。

 

そうか、少しだけ分かってきた。
今の私はリアルから遠ざかろうとしている。
現場、現場と言いながら、概念、概念に引っ張られる。ふりこのような往復運動のはずが、シャボン玉のような、薄い膜に囲われたか弱い球体として独立している。くっつこうもんなら忽ち割れてしまう。


『印度放流』の文庫版を手にしながら、藤原さんの直筆の文字をみて分かってきた。まちを歩き、写真におさめ、また歩く。無数にあるシャッターチャンスを、選択するのか、消去法で決めるのか、どちらにせよ目の前にある今を記録していく。そのリアリティが初めて、対話を対話にしていく。

 

藤原さんと同じリアルにいることをようやく理解できたところで、やっと今回の「土曜日の会」の振り返りが出来そうだ。

今日は、”リアルの哲学”の話だった。
すごくすごく面白かった。

写真

『印度放浪』
新たな問いが浮かんでくる、リアルは時間を超えられるのだろうか。
「アンジュ」の植物
今のカメラは勝手に被写体を決めて焦点を合わせてくれる。見たいものは自分で決めなくちゃ。
2024/10/26

川崎市高津区の素敵な投稿を地域遺産にしよう!

「地域遺産」総取得pt

コメント(1件)

藤本ゼミさんの投稿