今日の「土曜日の会」は藤原新也さんであった。私の拙い説明では多く伝えられないので、肩書きも省略させていただきたい。
正直よくわからない、何も言葉が出てこない。冷静だけど、頭は空っぽ。
というのは決して今日が何も実りがない日だったとか、つまらなかったとかそうではない。
私のノートは黒い文字でいっぱいだし、印象に残っていることは山ほどある。
響いているその音が、どこから跳ね返ってきているのか分からない。跳ね返ってきた音の波を、私の聴力では聴き取れない。はたまた自分の立ち位置さえも把握できていない。そのような感じに近い。
今回の「土曜日の会」で対話の平等性について考えていた。
今日の話と関係ないように見えるこの題が、私にとっては関係があるように見える。
おそらく「土曜日の会」には話すこと・聞くことの哲学が存在しているとからだ。
私にとって対話は不平等である。岬に立って見渡す地平線と同じようにどこまでも続く不平等である。目の前にいる他者が、己の言葉に責任を持たないのであれば、私がその責任を負わなければいけないような気になる。しかしそれを自己に統合するには痛い思いをする。その不平等さの境界で、他者と自己の接合点を探し続けることが、私にとっての対話である。ここまではいつも通りだ。
藤原さんは言っていた。
「平易にすべてを見られるようになった。」
これがわからない。藤原さんにとって、日本は他者であったようである。日本という他者との間に、距離があり、違和感を感じ、批判の対象にさえなりえた。それが飲み込めるようになるならば、他者と自己の関係にどんな変化があったのだろうか。対話が平等であるその瞬間を垣間見ているようだ。他者と自己が接合することなど、ありえないのかもしれない。
そうか、少しだけ分かってきた。
今の私はリアルから遠ざかろうとしている。
現場、現場と言いながら、概念、概念に引っ張られる。ふりこのような往復運動のはずが、シャボン玉のような、薄い膜に囲われたか弱い球体として独立している。くっつこうもんなら忽ち割れてしまう。
『印度放流』の文庫版を手にしながら、藤原さんの直筆の文字をみて分かってきた。まちを歩き、写真におさめ、また歩く。無数にあるシャッターチャンスを、選択するのか、消去法で決めるのか、どちらにせよ目の前にある今を記録していく。そのリアリティが初めて、対話を対話にしていく。
藤原さんと同じリアルにいることをようやく理解できたところで、やっと今回の「土曜日の会」の振り返りが出来そうだ。
今日は、”リアルの哲学”の話だった。
すごくすごく面白かった。
小倉 美惠子
川崎市宮前区
2024/10/27
理沙さん、アンジュのお庭のお花に眼差しを向けていたのですね。
昨日、アンジュのお庭を手入れしている女性に「きれいなお庭をありがとうございます!」と声掛けをしたら、とても嬉しそうに笑顔を返して下さいました。
でも、お花をじっくり見ることはなかったので、理沙さんの写真を見て「こんなに楚々とした可愛らしい花が咲いていたのか…」と思いました。
同じ場所にいても、人それぞれ見えているもの、心が動くものは違うものですね。
今回は、若き日に大いに影響を受けた『東京漂流』の著者・藤原新也さんとのセッションと
いうことで、いつにも増して緊張をしていました。しかし、どうも話が自分の範疇を越えてしまったと感じたところから「問い」を繰り出せなくなり、「当意即妙」とは程遠いことになってしまった…やはり「対話」は苦手だ…と思いました。毎度のことながら、後になって「これを聞けば…、こう答えれば…」と思う自分がいて、臍を噛む思いをするのです。じっくり「書く」、あるいは「じっくり関係を築いた人々とじっくりお話をする」という表現が自分に一番合っているのかもしれません。理沙さんの言うところの「対話は不平等」が具体的にどのようなことを
表しているのかよくわからないのですが、改めて理沙さんの思いに触れたいと思っています。