地域 長野県茅野市

山百合が咲くオーベルジュ・エスポワール(前編)

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料理

令和(2019〜)

エスポワール オーベルジュ ジビエ 八ヶ岳 八十二文化財団 地域文化 山百合

奥蓼科にあるオーベルジュ・エスポワールには、食事の予約の時間よりも随分前に着いた。その私たちよりも前に、八十二文化財団の岩渕常務は到着していたようだった。車から降りると、どこからともなく吹いてくる風に、やや湿り気を感じた。八ヶ岳の山々に囲まれた一角であっても今年は、例年のような清々しい風は吹いていない。それでも早朝まで都心にいた私たちにとって、奥蓼科の白樺やミズナラなどの木陰は抜群に心地いい。小枝や葉っぱを抜けてくる風は、身に染みついた都会の湿気や暑さをひと吹きに払ってくれた。

 

岩渕さんと簡単な挨拶を交わした後、八十二文化財団とオーベルジュ・エスポワールのオーナシェフである藤木徳彦さんとのそもそものつながりについて尋ねた。八十二文化財団は1987年以来「地域文化」という季刊誌を発行し続けている。その取材で藤木さんにインタビューをしたことが理由のひとつとしてあるようだ。地域文化は、信州に関わりの深い人や産業、そして何よりもそれらを育んできた自然や風土に着目し丹念に取材を続けている。言わば、これまで財団が築いてきた人のご縁の末端に私もつながっている。私には、藤木徳彦さんに会う理由があった。まさに、エスポワール(希望)を胸に抱いて。

 

立ち話をしている内に程よい時間になったので、私たちは駐車場から階段を上がり、エスポワールの建物に向かった。敷地は想像していたよりも広々としていた。白壁のいかにも高原風な建物が見えた。縦横に伸びた焦茶色の柱や梁がしっかりその建物を支えていた。前庭には白い丸いテーブルとそれを囲むように椅子が数席置いてある。薄茶色の大きなガーデンパラソルが先客と思われる人たちを高原特有の直線的な光から守ってくれていた。彼女たちは(四人とも女性)テーブルから立ち上がり、ひと時の安らぎを与えていた日陰から抜け出し、今まさにエスポワールの建物内に入ろうとしていた。仕事仲間なのか、あるいは気が置けない友人なのかはわからない。軽やかに笑いながら楽しそうに中へ入って行った。足取りからすると、エスポワールに来たのは始めてではなさそうだった。彼女たちを中へ案内した後、白髪で初老の男性が私たちに近づいてきた。

 

濃紺のスーツにネクタイを締めていることもあり、一目でエスポワールの関係者であることは分かったが、シェフの藤木徳彦さんの父親であることは、しばらく立ち話をするまでわからなかった。健一さんが優しげな親しみのある笑顔を浮かべていたのを今でもよく覚えている。皺が入る笑顔がとても印象的なのだ。兵庫県の出身で、エスポワールの敷地はそもそも健一さんが別荘として購入した場所だという。その後、息子の徳彦さんがフランス料理のシェフになり、店を構えた。庭先でのこうした何気ない会話が嬉しい。歓迎されているように思えるのだ。

 

建物の中に入り、最初に案内されたのは入り口の近くにある喫煙室。ドアを開けると中から葉巻の香りがほのかに漂ってきた。食事前の一服を楽しみにしているお客さんもいるという。私は禁煙して久しいが、椅子が数客席外に向かって並べられているところに座り、葉巻を吸いながらゆっくりとした時間を過ごすのも悪くないように思えた。いったい、ここで過ごす時間を楽しみにしている人たちは、どのような会話を交わすのだろうか。

 

そして食事をするテーブル席へ案内される。やや低めの天井を抜けた奥には、ガラス張りの開放的な空間が広がっていた。全体的に涼しげな木陰に覆われていたが、幾重もの枝葉を通り抜けてきた優しい木漏れ日がまだら状に点在し、一つのテーブルを示していた。たくさんの小さな幾何学的な形の光が、まるで風が吹く動きに合わせて生き物のようにあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。私たちが座るべきテーブルを案内してくれているようだった。

 

お客さんのできるだけ少ない日を予約していたこともあり、店内には先ほどの女性グループと私たちだけだった。食事の後、私たちはシェフの藤木さんと会う予定になっていた。

 

岩渕さんと同僚の小倉は、メインに鹿肉を選び、私は鴨肉を選んだ。追加で、小倉がきのこのグラタンを注文し、みんなでシェアすることにした。八ヶ岳一帯は研究者が注目する菌類の宝庫で、きのこがたくさん取れるという。「今の時期にしか取れないきのこ」という健一さんの勧めに(セールストークが混じってはいたが)、きのこ好きの小倉の心が動いたのだ。綺麗なカゴに行儀良く入れられた色どり豊かなきのこを見せられたのだから仕方がないが、信州人の私と岩渕さんにとっては決して珍しいものではない。小倉がきのこのグラタンを追加した時の、岩渕さんの驚いた顔が今でも忘れない。

 

エスポワールのジビエ料理は有名だが、そうした獣の肉のみならず、季節ごとに取れるきのこや野菜などの地元の産品を活かそうという姿勢が全ての料理から感じられた。それから意表をつかれたという意味において、前菜の皿に添えられていたロールケーキは印象に残った。生クリームをスポンジの生地で包んだ中には、おそらく燻製された肉(鹿肉だろうか?)が小さく賽の目状に散りばめられていた。生クリームの甘さは抑えられており、生地の柔らかい食感を口の中で何度も楽しんでいると、突然どこからか肉の弾力が逆襲してくる。燻製特有の燻した香りが鼻を抜けていく。最初は戸惑いがあったが、二口、三口と味わっているうちに「これはありかも」と思えるのだ。また、手作りのパンが美味しい。庭にある窯で焼いたものだという。デザートは、杏が挟んであるミルフィーユを選んだ。率直に言って、杏の使い方にはもう少し工夫の余地がありそうだった。信州人なので、杏についてはちょっとうるさいです。すみません。

 

そして食後、オーナシェフの藤木徳彦さんにお目にかかることができた。(後編に続く)

写真

ぶどうのジュース
軽い甘みと爽やかな酸味が渇いた喉を潤してくれる
記念写真|撮影:藤木健一さん
岩渕さん(左)、私(中)、小倉美惠子(右)
鹿肉
鴨肉
エスポワールの前庭に咲く山百合
健一さんが好きな花だという。ご自身で大切に育てているそうだ。
2023/09/01

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