私記

手料理

料理

世に知られぬ名人とか、達人とかという人達がいる。その一人に出会った。いや、その呼び方は思うに適切ではない。別に技を磨くことを目的としているわけではないからだ。

かつてあった妙が失くなりかけている、在るはずのものが見えなくなっている、そういう世界の中で、在ることの当然の中に生き、図らずもそれを伝えている、そういう人だ。


山菜づくしの御膳をいただいた。

木曽の山奥の辺境の地の、元民宿の女将の手料理だ。
看板もなく、もちろんホームページなどネットで上がる情報などあるわけがない。
隠しているわけでもないようだけれど、つてがなければ知ることも食べることも出来ないものだ。頼まれた時にだけ、一人で作れるだけの量を作り供している、らしい。
女将もそれで良いのだろう、という。騒々しさは好むところではないと思われるので、ここでも詳細は伏せておく。

人の手を通じて渡されたお重箱にはお品書きが付されていない。

それで、細やかに詰められた一品一品の、味を確かめながら食材を探っていく。

たらの芽、こごみ、あずき菜、独活、椎茸の天麩羅
蕨とうるい、人参の御浸し
わさび菜の酢の物
筍と山椒の煮付け
蕗の御浸し
独活の中華風炒め豚肉巻きフライ
蕗の薹のポテトサラダ生ハム巻き
おこぎのピーナツ和え
川魚の揚げ浸しもろみ味噌添
郷土料理の赤かぶの漬物
もちきびと鶏レバーの団子 
雑穀・山菜・筍の三種のちまき

間違いはあるかもしれない。けれど書き逃しているものを含めれば、一食でゆうに三十品目は超えると思われる。

あずき菜やおこぎなどはこの地方独特の山菜のようだ。

ひと月以上も遅れて春が来る山深い地で、ようやく芽吹いた山菜達は、それだけでもう生命の奥義を凝縮しているようだが、その草木の一つ一つの精神に、優しく語りかけ、耳を澄まし、対話をするようにして、作った料理達だった。

口に含むととろけるように柔らかい。けれど決して柔らかすぎず、小気味良い歯ごたえがある。山菜の野趣あふれる味わいがする。けれど決して挑戦的ではない。
山に住まう草木の香りがする。品良く気高く、密やかに。

調味料は控えめに、素材の味を引き出すだけのために使われている。
手間をかけ、気を傾け、宝物を扱うように作られた料理達だった。

少し離れた観光地の、富裕層をターゲットとした少人数限定高級宿の支配人と料理長が来たらしい。
女将の料理を大絶賛して帰ったようだが、彼らとタッグを組むようなことにはならなかったようだ。

こういう料理はそうそう作れるものではない。

藍染めをする人の話で、藍は生きているのだと言っているのを読んだことがある。
染料を作る過程はその生きている藍との対話なのだと、書いてあったのか、感じたのだったか。

言葉を持たない物たちの声を聞き、魂を交わすことが、素材に人の手を加えるということなのだろう。

物事の原点を見たような気がした。


形に残らぬものに委ねられた幾重もの想いを舌で受けとって胃袋におさめた。


もったいなくも食べて満たされるとはこの事なのだ。心と身体にその慈愛が染み込むような料理だった。

 

 

 

写真

2023/05/05 (最終更新:2023/05/09)

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