秋田大学が保有する「鉱業博物館」には、長年にわたる研究活動でコレクションされた地質や鉱工業に関連した資料がある。螺旋階段を中央に据え、三階からなるその建物は、鉱物や鉱石、また、鉱山資料まで、秋田の生い立ちを語る地質資料から構成されていて、小さいながらも見応えのある資料館だ。秋田の歴史を調べるにあたって、長く存在した鉱山の歴史なしに秋田を考えることはできない。そんな気持ちからこの博物館を再訪した。最初に行ったのは昨年度、とある企画展がきっかけだった。銀線を施した衣装などからアラビアの文化を考える、というもので、各地の衣装の差異などが説明書きと共に展示されていた。
そのときふと常設の展示室に置かれていた黒鉱と呼ばれる石に目を止めた。縦1メートル、横2メートルほどの大きさで、この石から亜鉛や銅、鉛などが取れるのだと言う。この黒鋼は秋田では広く採取されるものの、特定の鉱物を取り出す技術が開発されるまでは、役に立たないものとして捨てられていたと言うことだった。なんだか随分勿体無いことをしていたんだな、と思ったが、その時はそれ以上深く考えることはなかった。
そして先日、秋田公立美術大学でコーディネーターをしている土方大氏と再訪し、秋田について話している中で、私は以前に北秋田市(マタギや阿仁鉱山で有名な地域)で調査をしていた友人が紹介してくれた話を思い出していた。それは、阿仁のとある集落に道路が開通され、程なく人口が流出し、町の様子がすっかり変わってしまったことを嘆いていた長老のことだった。「道路が出来て、モノは入ってきたが、人は出ていってしまった。」新しいもの、生活を便利に、華やかにするものを運んでくれた道はまた、より良い生活を求めて人が出ていってしまう道でもあったのだ、と言うと、彼は、アスファルトが秋田で取れることを知っていますか?と問うた。アスファルト?道路を作るあれですか?と聞くと、秋田では天然のアスファルトが採掘されていて、それで道路を作ったこともあるらしいですよ。と言う。彼は続けて「もののけ姫の乙事主とモロの会話をご存知ですか?山犬のモロが「乙事主よ、数だけでは人間の石火主には勝てない」と言うと、猪神の乙事主は、「わしの一族を見ろ。みんな小さくバカになりつつある。このままではわしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう。」と言うんです。今、そのエピソードを思い出しました。」
秋田にあった風土は、道によって平均化している。どんなに近代化や都市化が遅かった地域でも、現代の北前船とでも言えるインターネットの普及によって、消費されるものと消費するものに分けられた。地域を繋ぐのはその土地に生きる全てであって、決して売りやすくパッケージされた特産物のような商品ではない。もし秋田が、その土地に眠っていたアスファルトのような資源を、自らを硬直させるものに変えてしまったのなら、それを砕き、新しい芽を育てるのもその風土であり、新たに水をやり、育成するのもそこに生きる私たち自身の手によるものでないと持続可能ではないだろう。
知識ですらも地域格差によってフルイにかけられたのちに配分されるのならば、フルイの手が届かない、大地の知識を繋いでいくのは私たちの責務であるように感じた。ただの消費者として狩られる前に、役に立たないと考えられていたが、実は全ての原石であった黒鉱に起こったようなことを自分たちにしてはいけないのではないかと。
※土方氏のコメントについては映画のセリフを一部加筆しています。
由井 英
川崎市宮前区
2023/02/17
長谷山さん
投稿をありがとうございます。
黒鉱、秋田、阿仁、アスファルト、 道、インターネット... これまで自分の中で繋がるはずもない言葉が繋がってしまうことの驚きと困惑。
平均化によって失うものとは?
消費される知識とは?
首都圏で、「秋田の原石」が混じっているかもしれないアスファルトの上で、それを自問していることの違和感。この先、私たちは、心から歩みたいと思う道を見つけられるのだろうか。