新橋 すき焼き「今朝」4代目店主 藤森紫朗さん (Part1)
*初稿の内容に誤りがあったために、修正を施しました。お詫びを申し上げます。
新作映画『ものがたりをめぐる物語』(大昔調査会・諏訪市博物館 主催)には、東京から藤森紫朗さんも駆けつけて下さいました。藤森紫朗さんは、新橋で明治13年創業の老舗すき焼き屋「今朝」四代目店主です。コロナ禍の中、会場でのご挨拶が叶わなかったために、監督の由井英と連れ立って、「すき焼き 今朝」を訪れました。
今回、「今朝」に伺い、伝統のすき焼きを味わった後に、紫朗さんから伺ったお話は多岐にわたりました。大きく分けて「諏訪と今朝」と「今朝140年の歴史」に分けて短い紹介をします。
「諏訪と今朝」
「藤森」という姓が諏訪由来であることは、諏訪に通う中で知ることになった。藤森紫朗さんの曾祖父にあたる藤森 今朝次郎は、明治初期に諏訪から上京したのだそうだ。
江戸時代、諏訪高島藩では「農間稼ぎ」を奨励しており、諏訪からは多くの若者が出稼ぎに出かけた。大森の海苔問屋をはじめ、伝手(つて)ができた馴染みの働き先に代々人を送り出す習慣もあったが、明治初期に銀座にできた牛鍋屋「今廣」もまた、諏訪人の出稼ぎ先の一つだったようだ。
この「今廣」、幕末に諏訪から上京した宮坂広吉が明治5年頃に開いた店で、広吉は日本料理の大店「今金」で修業をし、独立したのだという。広吉は自分の店の従業員を求め、故郷の諏訪で若者を募った。
藤森今朝次郎は、その募集に応じて「今廣」で修業し、明治13年に新橋(現汐留)に「今朝」を構えたという。新橋~横浜間に鉄道が敷かれたのが明治5年。そのわずか八年後のことだ。初代・今朝次郎には子がなく、故郷の諏訪から勝三郎を養子に迎え、二代目「今朝」を継ぐ。新橋駅前に洋食屋を構え、昭和13年に桃山風の純和風建築に改築し、「今朝」は最盛期を迎える。
『諏訪式。』でも登場する「お天気博士」藤原咲平は、二代目・勝三郎の甥にあたるのだそうで、咲平自身もよく「今朝」を訪れ、幼かった紫朗さんは面影を覚えているという。咲平には、作家の新田次郎、ハリウッド化粧品の創業者・牛山清人といった甥がおり、親戚づきあいがあったといい、二人とも「今朝」によく出入りしてという。
「今朝」のロビー先には、安倍能成揮毫の「今朝」木版横額が掲げられている。安倍能成は諏訪出身の岩波茂雄の畏友としても知られるが、そうした学者や文人たちが集う場でもあったのかもしれない。
新橋で生まれ育った四代目の紫朗さんと諏訪とは、血縁によって繋がれてはいたが、実際に諏訪と深く交わるのは、第二次世界大戦の激化に伴う疎開だった。昭和9年生まれの紫朗さんは、小学校3年生から6年生の三年間を、諏訪の母の実家に預けられ、母方の祖母と過ごした。とにかく食べる物がなく、常にひどい空腹に襲われていた記憶が強いといい、諏訪湖畔に生える茅のような草を細かく挽いてメリケン粉に混ぜて焼いて食べたことを覚えているという。それでも、川や諏訪湖で友達と魚を捕まえたり、冬は下駄スケートで遊んだ記憶が「諏訪」との忘れられぬ記憶になっているそうだ。(part2に続く…)
「今朝」WEB:https://sukiyaki.imaasa.com/
取材:2022.9.15
速渡 普土
札幌市白石区
2022/10/13
小倉美惠子さん
ご返信ありがとうございます。
『うつし世の静寂に』のコメントに書いたことと重複しますが、
“暮らしの型を受け継ぐこと”が、「拠り所」に関して重要な意味を持っているのでは、と感じています。
「信心を仲立ちとして繋がる仕組み」は良い意味の“型”で、代々受け継がれてきたその中に、風土(を感じとる機会)も織り込まれていたのかもしれないなぁ、と。
「ふるさと難民」は、会社などの型とは違う、もっと大枠の「暮らしの型」に飢えて、それを強く求めているような気もしています。
(かつての“自分さがし”の流行と、ふるさとの風景の喪失は関連があるかもしれません。まず型を踏まえることが、個の形成に不可欠?)
私は故郷の型とは距離が開いてしまいましたが、この地ならではの風景(の移り変わり)に心を動かすことが、住んでいる理由の一つになっている気がします。
ただ、私はまだ、拠り所となる型を探している途上かもしれません。
(高度成長期に“企業戦士”となった人たちは、きっと会社に拠るべき“型”を求めたのだろう、と突飛なことを思ってもいます)